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1968年メキシコオリンピックでは 7 得点を挙げ、得点王に輝くと共に、獲得に大きく貢献した。1985年に引退。1991年に松下電器/ガンバ大阪の監督に就任。1995年から2001年まで参議院議員を 1 期務め、労働政務次官を務めた。現在は日本サッカー協会副会長。2005年第
1 回日本サッカー殿堂入り。
センターフォワードとして、右足から繰り出されるシュートは非常に強力で、そのレベルは恩師のクラマー曰く世界最高クラスであった。特には正確無比。また、左足からのシュートも右足ほどではないが正確であり、跳躍力を活かしたヘディングシュートも美しかった。すなわちどんな形からでもゴールを奪えたのである。また、その日本人離れした圧倒的な得点能力は今でも、アジアの枠を超えて、世界レベルで見ても稀代のストライカーだという声も多い。彼のシュートを受けそこなった相手ゴールキーパーの指の間が裂けたというエピソードもあるほど、スピードのあるシュートを放った。メキシコシティオリンピックではその強烈なパワーでの異名をとった。
日本サッカー発展のため国内でプレーすることを選択したが、欧州クラブのスカウトがこぞって彼を獲得しようとしていた。
1968年1月、西ドイツへサッカー留学、2カ月後、メキシコオリンピック代表チームに合流。10月、メキシコ五輪3位決定戦で地元メキシコを2-0で破り銅メダル。7得点で同五輪の得点王に。
1969年1月天皇杯で三菱(現・浦和レッズ)を破り、ヤンマー初優勝。決勝ゴールをあげる。6月日本代表合宿中に倒れ、ウイルス性肝炎で入院。50日後の8月5日退院。以後、4年間は試合と通院の生活。W杯予選は欠場。
1970年3月、日本代表に復帰。12月、第6回アジア大会で4位。
1971年、日本リーグで初優勝。
1972年7月、ムルデカ大会で15得点、得点王に。日本は3位。
1977年3月、W杯予選で日本敗退。9月、ニューヨーク・コスモス戦を最後に日本代表を引退。
1978年2月、ヤンマー監督(兼選手)に就任。
1980年12月には世界選抜の選手として、ユニセフ慈善サッカー大会(スペイン)に出場。
1984年2月13日、引退を発表。8月25日、国立霞ヶ丘陸上競技場で引退試合。(ヤンマー対日本リーグ選抜、観衆60,000人、ペレ・オベラートも出場)
阪神ファンとしても知られる。
代表引退の理由は会社で机に脚をぶつけ、止まっているものも避けられないと身体の衰えを感じたためと言う逸話がある。
身長179cmと公式に発表されていたが、実際には185cm以上あった。
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